Tweets by interpolicyorg
top of page
検索

ナチスを支えたアメリカ巨大企業②「フォードモーターカンパニー」とヘンリー・フォード



フォード・モーター・カンパニーは1903年6月、アメリカ・ミシガン州ディアボーンにて、機械技術者だったヘンリー・フォードによって設立されました。今ではGMやクライスラーと並ぶ「ビッグスリー」の一角として、世界の自動車産業を牽引する企業です。

日本で「トヨタ」や「ホンダ」と言えば、誰もが知っている自動車メーカーですが、それと同じように、アメリカでは「フォード」と言えば、誰もがすぐに思い浮かべる存在です。フォードという名前に首をかしげるアメリカ人は、まずいないと言ってもいいでしょう。

さて、フォードが世に送り出した「T型フォード」は、1908年に生産が始まりました。当時、自動車は富裕層のための高級品であり、庶民には手が届かないものでした。しかし、フォードはこのT型を大量生産することで価格を大幅に下げ、一般の人々でも購入できるようにしたのです。

この戦略は見事に成功し、T型フォードは1927年の生産終了までに1500万台以上が製造されました。アメリカでは、自動車のことを「フォード」と呼ぶ人もいたほどで、その普及ぶりは社会現象と呼べるものでした。

この爆発的な普及こそが、後に「モータリゼーション」と呼ばれる現象の先駆けとなりました。モータリゼーションとは、自動車が社会において生活必需品として普及する現象のことです。フォード・モーター・カンパニーは、その先頭を走る存在でした。

 

この成功の背景には、ヘンリー・フォードの革新的な経営手法がありました。彼は「ライン生産方式」という、作業工程を流れ作業にすることで効率化を図る手法を、世界で初めて工場全体に導入しました。部品の組み立てを徹底的に簡略化し、未経験の作業員でも短期間のOJT(職業教育)で作業ができるようにしたのです。

さらに、ベルトコンベアを導入することで、作業の流れをスムーズにし、生産性を飛躍的に向上させました。この仕組みは、現在の自動車工場や工業製品の生産現場でも広く使われている基本的なシステムの原型となりました。

また、フォードは労働者に対しても革新的な取り組みを行いました。最低賃金の保障、昇給制度、福利厚生の充実、労働組合の承認など、当時としては非常に先進的な待遇を実現したのです。これにより、商品のコスト削減と労働者の高賃金を両立させる「フォーディズム」という生産哲学が生まれました。

このフォーディズムは、後に日本のトヨタが確立した「トヨタ生産方式(トヨティズム)」のモデルにもなりました。つまり、フォードの思想と仕組みは、世界中の製造業に影響を与えたと言えるのです。

販売面でも、フォードは抜かりありませんでした。大規模な広告展開と、全米および世界主要都市への販売店の設置によって、フォードはモータリゼーション時代の象徴的存在となり、世界一の販売台数を誇る企業へと成長しました。

しかし、時代は常に変化します。顧客のニーズが多様化し、高性能やデザイン性を求める声が高まる中、フォードは従来の大量生産・低価格路線に固執してしまいました。その結果、GMやクライスラーといったライバル企業に市場を奪われ、1931年には販売台数世界一の座をGMに譲ることとなったのです。

 

この競争の激化が、フォードを海外進出へと向かわせました。1925年にはドイツに子会社「ドイツ・フォード」を設立し、1931年には現地生産を開始。1935年のドイツ再軍備宣言を機に、軍へのトラック供給を本格化させました。

代表的な軍用トラックとしては、フォードモデル81「G917」などがあり、1941年12月にアメリカとドイツが戦争状態になった後も、パーツ在庫が尽きるまで数万台が生産されました。

その後、ヘンリー・フォードの協力のもと、ドイツ・フォードはナチス・ドイツに国有化され、1940年にはフランスに軍用車両や航空機エンジンの製造工場を建設。1941年には北アフリカにも工場を設け、戦線に軍用車両を供給しました。

さらに、1942年にはヨーロッパの権益をナチスの影響下にあるビシー政府へ移行し、ナチス・ドイツとの提携関係を維持し、結果として、ドイツおよびヨーロッパにおけるフォードの権益は保全されることとなりました。

また、1940年にはナチス・ドイツの西ヨーロッパ侵攻によって捕虜となったフランス兵が、国有化された独フォードの工場で強制労働させられるという、ジュネーブ条約違反の事例も報告されています。ただし、フォード本社としては、これらの行為に直接関与していないと主張しています。

 

ですが、実はさらに深刻だったのが、創業者ヘンリー・フォード自身の思想です。彼は1919年、「ニューヨーク・ワールド」紙のインタビューで突如として反ユダヤ主義を表明。その後、週刊紙「ディアボーン・インディペンデント」でユダヤ人批判を展開し、1920年には『国際ユダヤ人』という書籍を出版しました。

この本は、「シオン長老の議定書」という偽書を根拠にし、ユダヤ人が世界支配を目論んでいるとする陰謀論を展開しました。そして驚くべきことに、この書籍は世界16カ国語に翻訳されるほどのベストセラーとなり、ナチス・ドイツの思想形成にも大きな影響を与えました。

ヒトラーは「フォードは自分のインスピレーションだ」と語り、ナチス本部にはフォードの写真が飾られていたほどでした。彼は若い頃からフォードの著作を読み、反ユダヤ主義に深く傾倒していたと言われています。

このように、フォードの思想は、ナチスの台頭を後押しし、結果としてホロコーストという悲劇の一因となった可能性も否定できません。

さらに、フォードがナチスに資金援助をしていたという証言もあります。1922年には「ニューヨーク・タイムズ」がその事実を報道し、ヒトラーの側近がフォード邸を訪れて援助を依頼したという記録も残っています。

そして1938年、フォードの75歳の誕生日を迎えたその日、彼のもとにナチス・ドイツから直接祝辞が届けられました。さらに、ナチス政権から外国人に対する最高位の勲章である「ドイツ鷲大十字勲章ドイツわしだいじゅうじくんしょう」が授与されたのです。

この時点で、ナチスによるユダヤ人迫害はすでに国際的な非難の対象となっていました。アメリカ国内でもその動きに対する批判は強まっていたにもかかわらず、フォードはこの勲章を受け取ることに何のためらいも見せず、「捨てるつもりも返すつもりもない」と明言しました。

表向きの理由としては、フォード・ドイツ社の国有化におけるフォードの貢献に対するものとされていましたが、実際にはヒトラー個人のフォードに対する強い尊敬と傾倒が大きく作用していたと考えられています。

では、なぜヘンリー・フォードはここまで反ユダヤ主義に傾倒していたのでしょうか。その理由は、大きく分けて二つあるとされています。

一つ目は、フォードが海外市場の拡大を目指す中で、既得権益を握っていたユダヤ系国際金融資本勢力を「敵」と見なしたことです。特に、19世紀から世界の金融市場を支配していたロスチャイルド家などのユダヤ系資本家たちが、フォードの進出を阻む障壁として立ちはだかっていました。

それらに敵対するナチス・ドイツに協力することは、フォード社が国内市場での競争に苦しむ中、海外市場での巻き返しを図るための戦略的な動きでもありました。

二つ目の理由は、フォード自身の思想的な背景にあります。彼は技術者としては革新的な感覚を持っていましたが、生活者としては、アメリカの伝統的な農村文化に強い郷愁を抱いていました。都会的な生活様式や文化を「堕落」とみなし、古き良きアメリカの価値観を守ろうとする姿勢が強かったのです。

このような価値観の中で、都市部において金融・産業・メディアを支配していたユダヤ人を、都会文化の象徴として攻撃の対象にしたのは、フォードにとっては自然な流れだったのかもしれません。

この点については、獨協大学の佐藤唯行教授が著書『アメリカのユダヤ人迫害史(集英社新書)』の中で非常に的確に解説されています。フォードは、敬虔で善良なアメリカ人として、農村的な価値観を守ろうとする中で、ユダヤ人を「堕落の元凶」と見なしてしまったのです。

つまり、フォードが特殊な人物だったというよりも、当時のアメリカ社会に広く存在していた価値観の代弁者だったとも言えるでしょう。彼の反ユダヤ主義は、個人的な憎悪というよりも、社会的・文化的な背景に根ざしたものだったのです。

しかし、その思想がナチス・ドイツの台頭を後押しし、結果としてホロコーストという未曾有の悲劇を生む一因となったことは、歴史の皮肉であり、深い教訓でもあります。

フォードは『国際ユダヤ人』という書籍を通じて、ユダヤ人を「世界支配を企む勢力」として描き、世論を反ユダヤへと誘導しようとしました。

これについては、フォードの反ユダヤキャンペーンを支えた人物として、ロシア人亡命者ボリス・ブラゾルの存在も見逃せません。彼は帝政ロシアの秘密警察と関係があり、反ユダヤ主義を煽るために「シオン長老の議定書」を英訳し、フォードに読ませた人物です。

ブラゾルは、フォードの私設秘書であるアーネスト・G・リーボルトのもとで、「ディアボーン・インディペンデント」紙の記事の執筆や情報提供を行い、反ユダヤ思想の拡散に大きく貢献しました。

このようにして、『国際ユダヤ人』は世界中に広まり、一説には100万部以上が発行されたとも言われています。特に、第一次世界大戦後のドイツでは、敗戦の原因をユダヤ人の陰謀と結びつける風潮が強まっており、この書籍は「我が意を得たり」とばかりに受け入れられました。

1921年にはドイツ語訳が出版され、1933年までに19回も増刷されるほどの人気を博しました。こうして、フォードの思想はナチスのイデオロギーに深く影響を与え、ヒトラーの著書『我が闘争』にもフォードへの言及が見られるようになります。

ヒトラーにとって、フォードは思想的な師であり、実業家としての成功者でもありました。ナチス本部に飾られた等身大のフォードの写真は、その尊敬の深さを物語っています。

そして、フォードの思想がドイツ国民に広く浸透することで、ナチスの反ユダヤ政策を支持する土壌が形成されていったのです。これは、個人の思想が国家の政策に影響を与え、歴史を動かす力を持つことを示す、非常に象徴的な事例だと言えるでしょう。

さて、ここまでフォードの功績と影の部分についてお話ししてきましたが、最後にもう一度振り返ってみたいと思います。

ヘンリー・フォードは、自動車を庶民の手に届けることで、20世紀の生活を根本から変えました。彼の生産方式は世界中の工場に影響を与え、労働者の待遇改善にも大きく貢献しました。

しかしその一方で、彼の思想と行動は、ナチスの台頭を後押しし、結果として多くの悲劇を生む一因となりました。フォードのような偉大な人物であっても、時代の流れや価値観によって、功績と過ちの両面を持ち合わせることになるのです。

歴史とは、単なる事実の積み重ねではなく、人間の選択とその結果の連続です。フォードの物語は、技術革新の力と、それに伴う責任について、私たちに深く問いかけてきます。


 
 
 

コメント


bottom of page